当社のDNA

小池手造り農産加工所のDNA

 会長、小池芳子の父、信(まこと)の口癖は、『女性にも高等教育の機会を与え、〝自らが一個人として独立した存在であること〟が、これからの女性には求められる』というものであった。昭和20年代から「女性の自立」を口にする男性は極めて少なく、芳子はそんな父の影響もあって、思春期頃から親に極力頼らないということを一つの意思として持ち合わせていた。  高校を卒業した後、地元、喬木南農協に就職。生活課の主任として米や砂糖の配給を始め、生活資材一切を担当していた。他の農協の担当者が男性ばかりの中にあって、ただ一人の女性であったが、父の言葉を聞いて育った芳子は、なんら違和感を覚えることなく会議等にも参画していた。

 結婚後、諸事情により家業であった養蚕を担うことになり、いかにして収益を高めるかについて腐心し、最も手間のかかる桑の生産について五軒の農家と契約し、自らは蚕を飼うことに専念した。これが現在、会社の特色の一つに挙げられる「生産者から農産物を預かり、加工委託を受けて製品化する経営方式」の礎となったと言える。  その後、養蚕が下火になったため、何か他に手がける事業はないかと模索した結果、取り組み始めたのが野菜づくりだった。一人では相手にしてもらえなかった農協も、集団化して事業に当たることで取引に応じてくれた。当時としては大金の300万円を貸し付けてくれ、その資金を使って地元の女性たちだけで育苗センターを設立・運営をし始めた。この時、特に留意したのが「農家の女性が子育てをしながら参加できる農業を確立する」ことであった。この思いも、現在の小池手造り農産加工所に引き継がれていると言える。

 昭和58年には、規格外の野菜を活かし、女性達の手取り収入を確保するために、無人販売所を開設した。その後、仲間の後押しもあり、喬木村議会議員を二期(八年間)務め、女性の視点を最大限に発揮して、村の安全な水源の確保や、災害で傷ついたリンゴをなんとか加工して世に送り出そうと、県や村の助成を受け、しかも女性だけで「富田農産加工所」を設立した。

 平成5年、加工需要の高まりを背景に順調に事業が進展したこともあり、遂に実家の蚕室を改造して「小池手造り農産加工所」として独立を果たす。芳子は60歳であった。  その後、平成12年に当時競売にかかった現在の飯田市下久堅の施設を買い求め、加工施設を拡充。  おかげ様で、現在は全国およそ2,000軒(延べ)の農家さんと取引があり、全国に商品を送っています。
(参考資料:長野県下伊那地方事務所発行「信州農業の元気 かあちゃんたちに学ぶ」より)